uturned’s blog

青森から出てきたエンジニア

uturnedの退職・転職エントリ

退職エントリというしきたりを思い出した。いい機会なので前職のこと、この8年のことを記録しておこうかと思います。

転職に関しては #インフラ勉強会 でセッションをさせてもらって、ありがたいことに150人近い方に聞いていただき、資料のツイートは100RTいただきました。

 

 

今日は退職について、前職での思い出を記録しておこうかと思います。最初に言い訳をさせてほしいのですが、指の怪我でタイピングがだるく、モチベも下がっているので適当変換、推敲なしでいきます。

 

前前職

東京の音響機器輸入代理店で営業をやってました。会社が傾いたついでにUターンをすることに。

前職

しかしときは2010年、リーマンショックから立ち直っていない雇用情勢。

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出展: 求人倍率 バブル期超え 4月1.48倍、43年ぶり水準 :日本経済新聞

青森のハローワークでは月12万(年間休日83日)という職しか見当たらず、稀に出る月20万の職には1名枠に100人単位の人が応募していました。この頃のわたしは簿記3級しか資格を持っていませんでした。 ITパスポートくらいの知識はあるんだ!誰かわかってよ! と思っていました。「安定した仕事についている間に、リスクヘッジの資格を取るべきであった」という反省が、後の資格取得につながることになります。

絶望を抱えてハローワークを出ると、通りを挟んだ向こう側では小学校の子供達が鉄棒をしています。「あんな大人にならないようにね」先生がそう言っているような気がしました。

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緊急雇用創出事業

わたしを拾い上げてくれたのはSIerのボスと、国の緊急雇用事業(正確にはその後に実施されたふるさと雇用再生特別基金事業 )でした。国のお金で人員を育て、使えるなら拾う、それがボスのプランでした。ボスは懇意にしている地元のSE派遣会社に緊急雇用事業に応募するように命令し、僕はその会社に契約社員として入社しました。妻がある身で、契約期間は一年。エンジニアキャリアのスタートでした。

 

中学時代からHTMLに触っていたこともあり、前前職ではCSSを使ったブログ記事作成、Mac OS X serverを使った多少のサーバ管理(postfixでメルマガとか)はしていましたが、あくまで営業の延長線で勝手にやっていたことであり、エンジニアという役割は初めてでした。自分に割と向いている職種であることは感じていましたが「あくまでミュージシャン」「高校の数学もおざなりでその世界のプロになれるわけがない」と認識しており、自分がその世界に行くことには抵抗がありました。が、結局生活のためにスーツを着ました。何しろわたし、妻あり無職。。。

 

なんとなくかっこいい業界というイメージでいた僕を待っていたのは、THE・SIerという感じの、レガシーなwebアプリチーム(php/js)でした。NASにはxlsが並び、IDEではなくsyntaxカラーすらない秀○エディタでコードを書き、バージョン管理は一応SVNだけどリリースはFTP。小さいチームでお客さんもいないので、テストもおざなり、サイトをリリースしてもアクセスが10pv/日しかない、そんなサービスを大金かけてやっておりました。

 

29歳のわたしはITの資格など当然持っておりません。データベースという言葉も知らずに飛び込んだため、まずは企画やデザインの担当をしながら、コーディングを覚えるようにと言われました。最初から商談の場を見せてもらったことは幸運でした。どのように要件が(やんわりと)定まっていくのか、互いが言葉の不備をあえて残すことで都合のいい解釈を可能にし、問題を先延ばしにする光景を目にすることで、自分にできることがあるような気がしました。ボスからは、最後まで毎日毎日ベストな選択を探す、という姿勢を学びました。コロコロ意見が変わると言えばそうですが、もっといい手が思いつくことはいいことです。提出済みの要件をクリアしつつ、新しいアイデアをどう予算内で組み込み、言い訳をつなげていくのか、日々アップデートしていく感覚はわたしの思考にマッチするものでした。

最初の仕事は商談の企画書づくりと、商談の結果を画面案に起こすことでした。この頃は妻子ある身で契約社員という身分もあり、ボスに気に入られようとただただ必死でした。とはいえオラオラ系のボスの意見だけを通すと商談がまとまりません。商談がないと、わたしの首が飛んでしまいます。顧客とボスの要望をうまいこと入れて、画面案にはこう書いてボスのレビュー通すけど、実際はこうコーディングしといてね、的なことは割と早い段階でやっていたと思います。

入社からずっと、自社の態度は微妙なものでした。元請けの命令で人を取ることになった自社は「なんでお前を採らなきゃいけないの/県とのやり取りめんどくさ」オーラを出し、業界構造や緊急雇用の意味をわかっていないわたしをしばし悩ませました。わたしとしては事業終了後の継続雇用が最終目的であるためそこに向けた努力をしたかったのですが、ほとんどアドバイスももらえませんでした。元請けの言いなりということがわかった時点で自社に期待することはやめ、元請けに気に入られることだけを最優先に動くようになりました。自社に大きく大きく感謝することは、ほとんど口出しをせず、自由にやらせてくれたことです。本社からの指示もなく、半期に一度、A4一枚の賞与査定を書くだけで、とにかく何もない会社でした。もし金融出身上司の言いなりになっていたら、企画書を書き、顧客と話しができるという自分の良さを出せず、元請けの評価を得られなかったと思います。なんたってエンジニア技術ゼロでしたからね。そこで戦ってもしょうがないという発想は、自社にはありませんでした。

この頃は「正社員」という言葉ばかりを追いかけて、青森に連れ帰った奥さんのフォローをうまくできませんでした。大きな大きな心残りです。ここからプライベートにおいては、暗黒時代が、今に続くいろいろな軋轢が始まります。

緊急雇用事業が終わったとき、ありがたいことにボスは派遣会社にわたしの継続雇用を確約し、わたしは正社員になりました。給与は30万から17万になりましたが、不満はありませんでした。みなさんの税金によって行われた緊急雇用事業には感謝しかありません。地方でも都会と同等の給与がもらえ、IT未経験のわたしに大きなチャンス、何より時間を与えてくれました。お世話になっている1年半の間にITパスポート、基本情報、応用情報技術者試験をパスし、それなりの基礎知識と履歴書が手に入りました。この頃は毎朝車で勉強、帰りは残業のふりをしてドトールで勉強してから帰る、という生活でした。(給与が下って以降、喫茶店には入れなくなりました。)そうそう、最初はタイムカードを押したあと自席で勉強していたのですが、プロパーさんからの「あいつ何やってんの」があったために禁止になりました。無給でいいから学びたいという新人が現れたら、怪しい目で見るのが自然な労働環境なのでしょうか(電気代払えというのはわかります)。後々タイムカードを切らなければ怒られないことがわかり、私の混迷はさらに加速することになります 笑

ちなみに、緊急雇用は所得の再分配であり、地域格差の是正策でもあります。その間わたしは「国民のみなさんからいただいたお金」を極力amazonではなく地域内に落とすよう努力していましたが、自社がその経費で印刷する諸々をネット最安値の会社に出しているのを見て、社会は難しいものだなぁと感じていました。

資格はリスクヘッジ

  資格に関しては、わたしはみなさんほどマイナスなイメージを持っていません。普通高校卒だけで人を評価できないのは誰でもわかることです。IPAの資格は順番にエンジニアスキルを学ぶのにとてもよくできた構成だと思いましたし、事実、資格のない方の知識は設定画面に依存しており、これができるなら原理的にあれもできるはず、という発想には至らないものでした。問題文そのものもテキストの内容を含むので、試験中に学ぶこともできます。ネットワークスペシャリストで出たVXLANに関する問題は「そんな新技術があったのか!」と楽しみながら解答し、終わったときには自己採点をせずとも知識が増えている状態になっていました。ただ、今回の転職活動ではIPAの弱さを痛感することになりました。ベンダー資格必要でした。最低でもLPICを持っていれば、は後の祭りです。(後悔は資格そのものよりも、そこで得られたであろう基礎知識に対して、です。)

プロジェクトに関してはあれだけ仕様書だテストだ余裕のあるスケジュールだと騒ぐIT界隈のツイートが、資格というリスクヘッジに対してはやたらと消極的なのは疑問の一言です。

29歳スタートの私は、専門学校や高校からやってる人に勝てるわけがありません。プログラマはマネジメントが弱いという一般論に基づき、やりたいわけではないですが生き残るためにはこれしかないだろう、という消去法で最初の目標を「3年でプロマネ」にしました。ひよこ大佐がいうところの 「スキルの掛け算」 が生き残り戦略だったのは言うまでもありません。ただ、自分の場合は一番の部分が楽曲制作やデザインだったので、なかなかエンジニア業とは相いれず、損な人生やってるなぁ、と今でも思いますが、いつかなにかと掛合わさる日を夢見ている状態です。セキュスペでつまづいただせいでプロマネまで4年かかりましたが、振り返ると職場のフロア全員を追い越していました。

海外出張

4年目くらいのときでしたか、ボスが展示会でドイツに行くことになりました。「英語話せる人がいれば連れてくけど?」わたしには手を挙げる勇気がありませんでした。そうだ、英語をやっていなかった・・・これもリスクヘッジだった。そんなこんなで英語がちょっと話せるようになり、業務メールを英語でしても何も起こらず、しかしTOEIC 700をきっかけに、5年めにスペイン、次の年はシンガポールに連れて行っていただくことができました。

バルセロナの展示会は自分の人生でもっとも重要な出来事になりました。英語でビジネスをして、夜はバーで4カ国の人間が英語+母国語を織り交ぜて下ネタを話す。観光ではない、ビジネストリップだったからこそ、世界の人々がどうやって通じ合うのかを学ぶ旅となりました。これがなければアメリカの大学に入ることもなかったですし、外資に憧れることもなかったと思います。経験してわかることがある。本を読めば外国のことはわかる。ずっとそう思っていましたが、人と話すことは、現地に行かないとできないのだと思い知りました。ボスにはたくさんのことを感謝していますが、スペイン渡航はその最たるものでした。

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MWC 2015 会場にて

チーム改善計画

少しずつphpやjsも書けるようになり、cmsの改造をほぼ一人でやる機会がありました。それまでのコードを眺めながら、このチームのコードがだいぶ残念なことを確信していくようになります。入社から3年が経っても何の新技術も導入されず、ネットで見聞きする開発環境とは程遠い。オブジェクト指向は厳禁でした。コーディングに関して意見交換をする場面もまったく見ることがありません。横の連携もコードレビューもないので、同じ目的の関数が山のようにあり、ただそれにも文句は言わない、という暗黙のルールがありました。

cssファイルに書いたスタイルを、htmlのインラインに書き直されたとき、わたしはこのチームを変えることを決意しました。このままでは自分のエンジニア力が伸びないと感じたからです。ひとりの力には限界がありますし、わたしは業務実績がほしいのです。なんとかしてこのチームを変えないと、自分が潰れてしまうと思いました。とはいえ周りには大先輩しかいません。そこらへんの経緯は別の機会に回しますが、数年後、チームはgit/github/gitlab/docker/php storm/sublimeといったそれなりの環境を使いこなし、自発的に新技術を探す集団へと変貌します。わたし以外の方が自発的に勉強会を開いてくれた日のビールの味は忘れられません。シンガポール出張に行っている間、チームには急ぎの作業が託されていました。ここでメンバーは効率的な開発手法を自ら考え出し、自分たちだけで工夫するということをはじめました。わたしはその進歩を嬉々としてボスに報告するとともに、自分の役割の終焉を感じていました。

退職と希望

子供が産まれて以降、金銭的に辛く、奥さんもいろいろと安定せず。そこらへんを長々とボスに相談していた背景の中で、わたしの引き抜き話も何度となくありましたが、自社との関係から実行されることはありませんでした。これもまた、自分の実力は関係なく、環境による問題です。環境というのは難しい。代償抜きには変えられません。例えば半年無職になれば、引き抜いてもらうことはできたかもしれません。でもそうはできない。

ぐずぐずしている間に派遣法改正の影響で他の協力会社Bが撤退するということになりました。ボスはメンバーひとりを元請け側に引き抜き、そのフォーカスはわたしから彼へと移りました。チームとして正しい判断だと思いましたし、顧客折衝から離れインフラ業に専念できるチャンスだとも思いました。7年め、チームでdockerのワークフローを確立、サーバのリストラクチャが終息したあたりから、わたしのモチベーションが大学の勉強に移ります(もともとプロマネ取ったら好きなことをやることに決めていた)。会社で何かを学ぼうにも実践しようにも、時間と、何よりもお金が足りない。クラウドを使おうにも政治的なしがらみがあり使えない。サーバにSSDを入れたくても、入れられない。vSphereのライセンスも買えない。クラウド使うぞー!うそでーす!を半年おきに繰り返す姿に、チームは/人は変われても、扱えるものものは会社や予算が変わらないと変えられないのだということを痛感するようになります。ちなみに、クラウドを否定していた時代のボスの名言はこれです。

クラウドを否定するために、だめな理由をかき集めていた時代でした(今では笑い話ですが、自分の提案資料を否定されるために開かれるミーティングはこたえました)

できないことをできないと嘆いても何も変わらないので、常に道は模索しており、なんだかんだdockerねじ込んだりしてましたが、SIerのルールと、持ってこれるお金の額は派遣社員が変えられるようなものではありませんでした。アプリ開発OSSライブラリからクラウドAPI依存に変化していく中で、クラウドを使えない状況はフロントエンジニアとしての時間を本当に無駄にしたと思っています。

転職のくだりは先にスライドに書いたとおりです。ボスの「いつでも好きなところに行っていい」という気まぐれな言葉もあり、転職活動をした結果はやはり、外の世界に希望を抱くようになります。そんなおり、ボスはすっかり観光メインがお決まりになった欧州出張を入れました。付き添いはもうわたしではありません。ひと月前から決まっているスケジュール、失敗しても痛くない顧客提案、直前の金曜20時に呼び出されたわたしは「土日で提案書を作るように」告げられます。僕らの生活を左右する商談が待っているわけでもなく、ボスのモチベーションもない。顧客と話しました、という出張目的が埋められればいいだけの作業。その後はローマにスイス。お遊びです。「家族がいるので難しいです」と答えると、「やれ。以上、解散。」

会社の代わりはありますが、家族の代わりはないのです。

よーしやめよう、と思えてしまった一件でした。

自社への思い

退職に関わるいざこざは、自社と元請けへの情報操作を駆使して、最後にそんなパワーボスからありがたいお言葉をいただけたので、まあそれなりにうまくまとめられたと思っています。

「新しい生き方に挑戦させることが、君の努力に報いるということだ」

この言葉には、抑えていた涙が溢れました。そんなことを考えられていたとは、本当に、感謝しかありません。録音しておくんだったなぁ。

チームと、直属の上司からもありがたい贈り物などいただき、ありがたくありがたく・・・。みんなのおかげで今があります。なんでも許してくれました。自社は代わりの人員を入れられない(このチームの単価が低いこともありいても入れない)ので元請けから当然怒られます。板挟みになった上司はただただかわいそうでした。ごめんなさい。

自社が望まない採用ではありましたが、結果的にはこの8年、社と二人三脚で総額5000万以上の売上をもたらしたことになります。しかし、本社の社長、取締役からは「健康に気をつけて」までで、 「今までありがとう」という言葉をいただくことは最後までできませんでした 退職金の紙に書いてありました! 最後の社長との雑談で、わたしは衝撃の事実を知ります。「この会社は安く派遣するのがウリ。単価交渉も一応するけど、元請けが困ってもしょうがないからあれはポーズ。」そうだったんですか・・。「では元請けの価値を上げて、元請けの売上を上げればいいんですよね」という私の言葉は、下請エンジニア上がりの社長には届かない。この会社には、 価値創造 の手段が「安くする」しかないと、社長がいうのです。衝撃でした。少なくとも自分は、チームの価値を作る/上げるためにこの8年奔走してきました。dockerじゃなくて、dockerを通して提供できるサービスに価値がある、そこで元請けの売上を伸ばして僕らの技術も伸びる、社に貢献できる、その思いで元請けと二人三脚、やってきました。それが評価されないのは、この社の方針のもとでは当然だったのかもしれません。

会社の名誉のために言っておくと、社の目標は「細く長く続けること」だったそうです。安くても良い。波をなくして、長く雇用を維持する。この地方において、雇用維持は重大な課題であり、すばらしい方針だと思います。望むべくは、その方針を社員に共有してほしかった。そのうえで、付いて行くもの行かぬもの、社員の人生に関わる重要な位置に存在するハブとして、社員の人生にもっと関わってくだされば、みんなもっと幸せになれるのかなと思いました。

・・・愚痴っぽくなってしまいましたが、何にせよ自分を採用し育ててくれた会社です。わたしが選んだ会社です。 わたしのわがままを受け入れてくれたチーム、そしてプロジェクトごとに次々と新しい役割を経験させてくれたボス、何も言わず放置してくれた自社(皮肉ではありません)、すべてのひとに本当に感謝しています。

これから

今回東京に行くことにはなりましたが、正直なところ、続ける自信はまったくありません。37歳の自分にできることとはなんなのか。また青森に帰るかもしれないな、家は売らないほうがいいかな、と思ったりもします。とはいえいただいたチャンス、これまでの8年と同じように、その前のミュージシャン時代と同じように、精一杯やりきるしかありません。わたしにとっての社会人=学校を出たあとに働くもの=プロのギタリストでした。そこには雇ってもらうという感覚がありませんでした。周りは在学時代からその腕一本で仕事をもらって、巣立っていくスーパーミュージシャンばかり。お金をもらう以上はプロであれ。プロの知識と技術を身に着けて、人前に立つのが、当たり前。じゃないと、仕事来ないしなくなるし。

「プロのギタリストになったら、家族の葬式には出れないよ。チケットに名前が載っちゃうんだから。」

専門学校で井上博先生に教わった言葉です。お客さんが/自社が名指しで自分にお金を出してくれる、その重みがわかる言葉です。

「1000回に1回しか使わないフレーズをどれだけ引き出しに入れられるか、それがプロ。」

同じく鈴木宏幸先生の言葉です。知識の大切さ が凝縮されています。

鈴木先生からは引き出しへの入れ方・出し方をわかりやすく教えてもらいました。その教えはギターにとどまらず、あらゆる学びに役立っています。

自分はこれからも知識を求めて、そのために新しい環境に身を置くのだと思います。

できるかわかりませんが、やってみるのみ。東京暑いけど、雪は少ないし。

まずは今まで8年間お世話になった会社と、青森のすべてに、ありがとう。縁があったら、みなさんまた一緒に働かせてください。

その日まで、また。